院長のコラム

ある彼との出会い

2011.03.20

佐野元春30周年記念コンサートin大阪(1)
11-3-20

最近、佐野さんに関連することを題材に当コラムを書く機会が多くなった。それもそのはずである。昨年から佐野元春デビュー30周年を記念するコンサート・イベント、CD・DVDの発売、wowwowでのドラマを始めとした特集、各種紙媒体での特集、音楽番組への出演など、不熱心なファンでさえも何かと目につく機会が多くなったからである。
たまたまホームページを見ていたら、30周年記念コンサートのファイナルを大阪と東京で開催することが告知されていた。いつもなら、古くからの友人、彼はファンクラブに入会しているので、京阪神地区でコンサートがあればコンサートの連絡、しかもファンクラブ優先の席を確保してくれた。しかし、彼は転勤で東京へ行ってしまった。

少し彼のことを話しておきたい。彼とは北海道の病院で出会った。僕は医者になって6年目の地方病院の下っ端、彼は製薬会社、今は3文字の英語つづりになった会社の新米、僕よりも7、8歳年下の医薬情報担当者(以下MRと略)だった。
その当時、特に地方病院では、製薬会社の飲食接待に関して、製薬会社にも医師側にもあまり規制や規則がなかったように思う。したがって、製薬会社の担当者がその病院の売り上げを伸ばそうと思ったら、その科の責任者に接待攻勢をかけるのが一番てっとり早い方法であった。赴任して来たばかりの下っ端の僕になど挨拶はあっても、それ以上の美味しい話は全くなかった。

彼は東京育ちの新米で、地方病院で自分がどのように振る舞えばいいのか分かっていない感じであった。下っ端の僕から見ても、ぎこちないMRという当初の印象であった。その彼がある日の訪問で、「先生は佐野さんのファンですか、僕もファンなんですよ。」と声をかけて来た。僕の机の上に置かれた佐野さんのCDを見たようだ。他の製薬会社はその病院にくい込もうと医局(この場合、医師達の机が置かれている部屋をそう呼ぶ)の前で僕の上司を待ち構えているのに、それ以来、彼だけは上司よりも僕を待つようになった。薬のことよりも、佐野元春の談話に来ているようだった。その後、公私にわたる付き合い、公の部分はほとんどなく私的な付き合いがほとんど、一緒にコンサートに行ったりカラオケに行ったり、自宅にも遊びに来てくれたりした。数多のMRに出会ったが、今度高校生になる長男がよちよち歩きの頃を知っているのは彼だけである。

その翌年、僕はその病院の内科の責任者に抜擢された。他の製薬会社の、手のひらを返したような対応にはびっくりした。今度は僕に接待攻勢が始まったのだ。特に、国内トップメーカーの担当者は、今まで上目遣いでしか会釈してくれなかったのに、急にすり寄って来て、今度食事に行きましょうときた。余談であるが、これ以降その製薬会社とはどうにもこうにも相性が悪く、現在もほとんど付き合いがない。
さらにその翌年、僕は上京することになった。雪解けのため太陽の反射がきらきらまぶしい北海道の3月、彼が親しい何人かと送別会を開いてくれた。詳細は憶えていないが、「北海道の春の気配」「薄暗い西洋居酒屋」「親しい友人との別れ」、そんな切ない印象だけが強く残っている。

その後、彼も関東地方へ、そして大阪への転勤になった。僕が和歌山に帰ってきてからは、佐野さんが大阪に来る度に連絡が来て一緒にコンサートに行き、帰りは居酒屋でコンサートの内容を熱く語り、彼のワンルームマンションにも何度も泊めてもらった。
彼とは、医師と製薬会社担当、持ちつ持たれつの関係を超えて、まさにファン同士、佐野さんがコンサートでいつもMCするように「ここにいる奴に、やな奴は一人もいないぜ!」長い付き合いをさせてもらっている。ちょっと前に結婚したことがはがきで知らされ、最近の年賀状では子供さんも出来たようだ。
当時下っ端の若き青い医者が今や一端の開業医、ぎこちない新米のMRだった彼も、今や本社で製品のプロモートに関する仕事に従事している。
佐野さんを介して、僕の医師人生の初期からの歩みを、常に遠くから見ていてくれる友人に出会えた。全く異なる人生を歩んでいた人間を引き合わせてくれた佐野さんに改めて感謝したい。そしていつの日か、彼の家族と僕の家族で佐野さんのコンサートに行けたなら、至福の喜びである。

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