政治家と政治屋
政治家の発言に感じたこと
野田内閣の閣僚であった鉢呂吉雄前経済産業相が自らの不適切発言で大臣を辞任した。「死の町」と表現したことについては、僕自身多少の違和感を覚えるくらいで、原発被害の影響が尋常でないことを表現したものと理解した。「放射能をうつしてやる」発言は、初めて聞いた時、言語道断で辞任も当然だと思った。しかし、発言の場がオフレコの懇談会の場だったことを知って、鉢呂氏を擁護するつもりはないが何か別の意図的なものを感じた。
僕は友人や仕事仲間と食事をする機会が多々ある。酒席のくつろいだ場なので、公表できない危ない話をすることもある。もし例えば、僕が問題ある発言をし、そのことをその場にいた誰かがマスコミにリークしたとしよう。後日、マスコミが取材に来てインタビューされたとしたら、動かせぬ証拠がない限り鉢呂氏と同じように「その場の雰囲気で言ったかもしれないし、そこまでは言っていないかもしれない。しかし、そのようなニュアンスの発言をしたとしたら、関係各位にお詫び申し上げます。」と弁明をせざるを得ないだろう。しかし、この時点でゲームオーバー、真偽のほどを明らかにされないまま、問題発言をした医師としてレッテルを貼られ社会的に抹殺される。
少し前にも物議を醸す発言が二つあった。一つは、石原都知事の「震災は天罰」発言、もう一つは松本龍元復興担当相の「長幼の序」発言である。石原発言はその部分だけを取り上げると、被災者に対する配慮が欠けていたと言わざるを得ない。都自体や都民に甚大な被害が出たら同じような発言をしただろうかと疑うが、僕自身、前後の文脈から考えれば、日本人に対する警鐘を鳴らす発言だったと理解している。一方、松本氏の発言は、言葉だけを取り上げると当たり前のことであるが、知事に対してあのような場で用いる言葉なのか、それ以上にその後の恫喝するような態度に嫌悪を感じた。
発言したかどうかさえ不明な鉢呂氏、目上の人に敬意を払いなさいはもっともだが、発言の場と仕方に問題のあった松本氏、とんでもないことを公共の場で発言した石原氏。前二者は大臣を辞任せざるを得ない状況に追い込まれ、かたや石原氏は都知事に再選された。この違いは一体何だろう。
自分が思うに、一言で言えば政治家と政治屋の違いにつきる。前者は、揺るぎない政治信念や哲学を持って政(まつりごと)に関わっている。したがって、マスコミに言葉の端々をとらえられてもびくともしない。逆にマスコミが切り返されるので、マスコミにもそれなりにつっこむ覚悟が必要であるが、石原都知事と対等に渡り合っている記者をテレビで見た事はない。
一方、政治屋は我々の周りにたくさんいる。政治屋は話をすればすぐに分かる。学もなければ、人間的魅力も皆無。しかし、右顧左眄(うこさべん)な割に妙に立ち回りがうまく、利益誘導してくれそうな口ぶり思わせぶりな態度が憎らしい。選挙前には土下座をせんばかりにへりくだるが、当選した暁には我が物顔で知らんぷり。卑屈なくせに権力欲だけは異常に強いのが政治屋である。市会議員の次は県会議員、あわよくば国政へ、そんな輩が地方議員には多い。所詮、国会議員も同様で、政治屋の成れの果ての輩が多い。
強きを助けて弱きを挫くマスコミだが、政治屋をふるいにかけるという意味では、それなりの存在理由があることを今回の一連の出来事で理解した。