生きているということ
ご縁に感謝!!!
今年の夏、御縁があり寄稿させていただきました。
父が僕と同じ年齢の時、何を思い、何を感じていたのだろうか。
年を経るほど、強く知りたくなって来ています。
生きているということ 長嶋雄一(長嶋伸幸長男)
ある日、いつものように診療の合間に私宛の郵便ボックスを開けたところ、長嶋雄一の宛名の横に、伸幸様ご子息と書かれた茶封筒が入っていました。差出人は◯◯◯◯様、しかも父君友人と書かれているではありませんか。狐につままれたような気分で茶封筒を開け、同封されていた手紙を拝読しすべてを理解しました。驚きとともに、幾星霜を経た不思議な出会いにご縁を感じました。
この度、🔲🔲会五十周年記念誌作成にあたり、父の代理として寄稿するようにとの◯◯様からのご依頼、二つ返事で承諾させていただきました。というのも、父が他界して早十四年、胃内視鏡検査を普及させ医師会長にまでなった父の存在を知る人が、年月とともにこの地域でさえ少なくなっていくことに対して、生きることの無常を感じていました。しかも情けない話ですが、私自身、日常業務に人付き合い、子育て等で父のことを意識することはほとんどありませんでした。これを機に、父を知る方々に少しでも思い出していただきたい、何よりも自分自身、父と再度向き合いたい気持ちになりました。
父は、平成十二年一月九日に五十九歳で他界しました。「胃(カメラ)の長嶋」と呼ばれた父は、胃癌で亡くなりました。医者の不養生、河童の川流れを地で行く洒落にならない話ですが、妙なところで無頓着な父らしいように思います。
その十年前、妻であり私の母である阿也子を卵巣癌で亡くしました。母が発病したのは、私が高校二年の夏でした。手術や放射線治療に加えて、その当時認可されていなかったシスプラチンによる抗癌剤治療等ありとあらゆる手段を講じましたが、私が医学部一年の秋、母は他界しました。若くして母を亡くしたやるせなさから、父に対して「自分の妻の病気を見つけられない医者が本当に医者なのか!」と思わずなじってしまいました。今のようにガン告知が一般的でなかった時代、本人はもちろん息子達に要らぬ気苦労をさせまいと考えた父の苦悩をなぜ理解できなかったのでしょうか、後悔先に立たずとはまさにこのことです。
母を亡くした父の楽しみは、仕事と読書と株式投資でした。医師会や社会奉仕活動にも熱心でしたが、それらは妻を亡くした悲しみを癒すには物足りなかったようです。長期休暇で帰省した際にはいつも、日本の現状、世界情勢、これからの成長分野のこと、読んだ本や株式投資で学んだことを、社会の何たるかも分かっていない医学生に向かって、真っ赤な顔をしてほろ酔い加減で熱く語る姿が昨日のことのように思い出されます。
晩年は、弟が地元の基幹病院に外科医として戻ってきて自宅から通うようになり、主夫を楽しんでいたようです。北海道で修行していた私に週一で電話をくれ、近況報告とともに、弟の面倒で忙しいことをいつも嬉しそうに話していました。今更ながらですが、父の息子に対する溢れんばかりの愛情を改めて感じております。
何気なく父のことを書き出しましたが、話はまだまだ尽きません。もっと父のことを語りたい、知ってほしいという思いは募りますが、もうこれくらいに。
この文章を書く前、△△△△様からメールをいただきました。「お父様は我々のメンバーとして生きております。」と。このメールを見て、生きていることの意味が突然、腑に落ちました。父は亡くなった、と私は思い込んでいたようです。こうして自分の内面に問いかければ、父はいくらでも答えてくれます。今回この寄稿をさせていただいて、人の心に生き続けることの大切さを教えてもらいました、
父に感謝、🔲🔲会の皆様に感謝、そして今回のご縁に感謝!!!