栄光の架橋
僕自身は浪人したことがない。けれども、何度も夢の中で浪人を経験した。「俺の人生、もう終わりや。」「もうあかん、やっていけん。」夢の中とは言え、落ちることの恐怖感や絶望感を何度も味わった。その苦しさは理解できるつもりでいる。我が子供ながら「よくぞ頑張った、あっぱれ!」快哉を叫びたくなる。方や、受験生の親を六年も経験した。受験生とまで言わなくても、その気持ちは遜色ないと感じている。本人は頑張った分成績が上がる。しかし、親は何も出来ない、頑張れない。支援して応援して、ただ見守るだけだ。日頃の信心がないから、苦しい時の神頼みでは神様は見向きもしてくれない。得も言われぬせつなさが、六年も続いた。その苦悶の日々からようやく開放される。
息子二人の入学式には夫婦ともども参加しなかった。全寮制男子校出身のせいか、行事ごとへの親の参加に対して二人とも無頓着である。今回の娘の入学式、妻は自らの意思で参加することを決めた。娘は、中高と遠距離通学による体調不良のため学校を休みがちだった。それは即ち、学校でも家庭でも居心地が悪かったことを意味する。学校や親子関係で我々夫婦、特に妻が大変な苦労をした。将来を不安視していた娘が自身で決断し、思い通りにいかなかったが難関の医学部合格を勝ち取ったことに違いない。「手がかかる子ほどかわいい」のかもしれない、四月五日の入学式当日、妻は自分の仕事はさておき早朝から大阪に向かった。入学式は、多数の保護者で溢れていたそうである。妻がもっと驚いたのは、平日にも関わらず父親の参加が多かったことだそうだ。時代が変わっても父兄の意識はさほど変わらないようだ。三十年以上前、たくさんの保護者も参加した入寮式に、たった一人ぼっちで臨んだ切なさが蘇った。
信じてもらえないかもしれないが、子供たちに「医者になれ。」と言ったことは一度もない。医師という職業は、頭がいい、偏差値が高いからという理由でなるものではない。生老病死、人の悩みや辛い苦しみに常に寄り添わなければならない。使命感がなければやっていけない。勤務医時代、確かに通常の勤め人より給与は高かった。けれども、こなさなければならない仕事量とその内容、求められる責任、休日待機等を考慮すれば、妥当もしくは少ないくらいだと感じていた。開業医は儲かっているイメージがあるようだが、開業したからといって必ず成功するわけではない。野球で例えれば、球団オーナー、ジェネラルマネージャー、監督、コーチ、キャプテン、プレーヤーをすべて一人でこなさなければならない。すべての責任が自分の肩にのしかかってくる。その重圧たるや如何ほどのものか。今、振り返ると、僕が歩んだ道は紆余曲折で先の見えないガタガタ道だった。子供たちがどのような道を歩むのか分からない。成績が良かったから、親が開業しているから、生活が安定しているから、そんな単純な動機で進む世界ではない。それ故、開業する際、自身の矜持としてクリニック名を自分の名前にした。「長嶋雄一クリニック」は何人たりとも継承できない。
「栄光の架橋」誰もが知るゆずの名曲である。NHKアテネ五輪放送のテーマソングになった曲で、誰もが何度も聞いたはずだ。そのせいか、アスリート達に向けた応援歌というイメージが僕にはあった。なんと、その曲が娘の入学式に在校生から届けられたそうだ。妻から聞かされた僕は、当初「ふーん」と聞き流した。このコラムを書き始めて、初めてその歌詞をじっくり読んでみてびっくりした。おこがましいことを承知で言わせてもらうなら、俺の人生歌だ!。その次に感じたのは、「医学の道を歩み始めた子供たちへの父からの応援歌」であった。聞き流していた曲に普遍的真理を見出したような気がした。受験生の親からの卒業にあたり、とめどもないことを書き連ねてきた。精神衛生上少しは楽になったが、僕はまだまだ走り続けなければならない(この項おわり)。
栄光の架橋 作詞 北川悠仁
誰にも見せない泪があった 人知れず流した泪があった
決して平らな道ではなかった けれど確かに歩んで来た道だ
あの時想い描いた夢の途中に今も
何度も何度もあきらめかけた夢の途中
いくつもの日々を越えて 辿り着いた今がある
だからもう迷わずに進めばいい
栄光の架橋へと・・・
悔しくて眠れなかった夜があった
恐くて震えていた夜があった
もう駄目だと全てが嫌になって逃げ出そうとした時も
想い出せばこうしてたくさんの支え中で歩いて来た
悲しみや苦しみの先に それぞれの光がある
さあ行こう 振り返らず走り出せばいい
希望に満ちた空へ・・・
誰にも見せない泪があった 人知れず流した泪があった
いくつもの日々を越えて 辿り着いた今がある
だからもう迷わずに進めばいい
栄光の架橋へと
終わらないその旅へと
君の心へ続く架橋へと・・・