初めての機械式腕時計
僕の選んで来た時計は、すなわち自分の歩んで来た道でもある。学習して、知識を得て、自分の収入に見合った時計を買う。購入したことによる達成感、しばらく付けてみて感じた実体験。この道程を、何度も繰り返したどった。もちろんそこに留まっている訳ではない。積み重ねたものを踏み台にして来たので、螺旋階段を上っているようなものだ。下を覗いた時、「何で(この時計を)買ったんやろ。」「もっと、他の選択があったやろ。」と思うことがある。しかし、それはすなわち自身を否定することになる。したがって、自分で買った時計を身内以外の他人に譲ることはない。もちろん、新たに購入の際の下取りにも出さない。僕は老いたのか、時々、しなくなった時計を眺めながら、その当時の自分の心境や購入経緯に思いを寄せる今日のこの頃だ。
僕が自分の力で機械式腕時計を購入したのは、三十歳の時である。大学院を卒業し働き始めて二年目のことである。購入するにあたり雑誌を読み漁った。当時もロレックスは人気で、猫も杓子もロレックスという風潮に辟易していた。ロレックスの選択は眼中になく、それ以外を懸命に探した。当時、ネットなんてない。雑誌以外で調べることが出来ない、時計選びを指南してくれる人もいない。ロレックス以外の黒文字盤で探していたら、ある日、雑誌の記事が目に飛び込んできた。オメガ、デビルプレステージ、ピンクゴールド、世界限定1120本。セレブな文言の数々と限定の言葉にやられた。時計選びは変遷したが性根は変わらないようだ。蘊蓄とこだわり、限定にいつもやられている。
ドレスウォッチという言葉を聞いたことがあるだろうか。服装と同様、腕時計にも本来、厳格なマナーがある。その名の通り、冠婚葬祭や式典等最も格式の高い場で身につける腕時計である。価格や人気、カッコよさやレア度なんて全く関係ない。定義は曖昧だが、二針または三針、文字盤はシンプル(日付機能は許容範囲)でかつ薄型(9mm以下)の革ベルト、大きさは39mm以下(ベストは35mm前後)、素材はゴールドもしくはプラチナならなお格式が高い。ロレックスのデイトナは高価でレアだが、フォーマルな場では原則NGである。逆に言うと、ドレスウォッチを日常使いするのは不適当である。したがって今の僕なら、腕時計初心者に対して心底親身になってアドバイス出来る。「最初に選ぶ時計は、オールラウンダーに限る。」と。
医師と言えばホワイトカラー、座って指図して管理するイメージがある。実際は、究極のブルーカラーなのだ。始終手洗いと消毒、素手と手袋、デスクワークと観血的な処置、ネクタイと検査着、一見真っ白に見える白衣の襟は汚れと黄ばみ。当直時は二十四時間体制、風呂に入れない、夕飯は十分でかきこみ、胸にぶら下がった携帯電話に「今日は何も起きませんように、神様!」と願いをかけて身を任せるほかない。そんな生活の中、人生初めて、得た収入でこだわり抜いて買った時計が何とドレスウォッチだった。本当に、無知とは恐ろしいものだ。寝ている時以外装着していると、おかしな自分でも流石におかしさに気づいた。なんだか左手首がよく汗ばむ。日々革ベルトの表面の質感が萎えてくる。ベルトの裏面は、いつの間にかシミだらけである。そのうち、ベルトの遊環が切れた。販売店に問い合わせると遊環だけの販売はなく、ベルトそのもの自体を交換しなければならないとのこと。購入してたった一ヶ月でベルト交換に約二万円を要した。「はああっつ、何で(まるごと交換)?」、革ベルトを交換して以降、オメガをすることはほとんどなくなった。(つづく)