「アンメット ある脳外科医の日記」を考えてみた。(後編)
言葉に表さなくても抱擁しなくても、表情や仕草だけで伝わる恋愛感情。過多な説明セリフが少ないことによる豊かな行間、俳優に一任された登場人物の表現法、削ぎに削ぎ落とした演出とカメラワーク。ミニマル故に見ている側の想像は、どんどんかき立てられ膨らんでいく。近頃、ドラマを見るに当たって、考察や伏線回収という言葉がもてはやされている。「アンメット」は、それらの言葉が凡庸になるほどの最終回になった。「VIVANT」も「アンチヒーロー」もクライマックスに向けて物語は進行し続け、最終回ですべてのなぞが解ける。それが良いドラマのような風潮が今どきあるけれど、逆説的に言えば、「終わり良ければ全て良し」のドラマ作りになっていないだろうか、「アンメット」を見終えて胸をよぎった。
「アンメット」は基本的に一話完結。そこでそのエピソードは一旦終了する。しかし、根底に流れるのは主人公ミヤビが綴る、「わたしの今日は明日に繋がる」。だから、一つの物語が終わってもそれが主人公を通して不思議と次回に繋がっていく。そもそも、振り返れば我々の日常もそう。嫌なことがあれば同じくらい楽しいひと時があり、その積み重ねで生きて成長している。話がそれたので戻すと、「アンメット」の最終回は伏線回収という名の答え合わせではなく、実は物語の始まりだった。それを知ってから初回を見直すと、物語の見え方が全く異なった。「アンメット」は、記憶障害を負った恋人を支援し救済するために奔走する若葉竜也演じる三瓶友治の物語だった。結婚を誓ったはずの二人なのに、彼女には全く記憶がなく彼には強烈な記憶が残っている。ドラマを見直すと、三瓶先生のもどかしさ、はがゆさ、せつなさが痛いほどに画面から伝わってきた。若葉竜也、恐るべし。
このドラマの秀逸な点は、医師の視点でも違和感が少なかったこと。原作の漫画を読んでいないが、医師が原作の物語故に、ドラマ制作スタッフは原作者に対して相当なリスペクトを払ったことは想像に難くない。僕は内科医だけれども、内視鏡検査・治療に従事しているから手術時の緊迫感は理解しているつもり。術中を術者の視線だけ追うカメラワーク、術後も称賛や拍手などなく、ただ「ありがとうございます。」の一言とマスク越しの目と頷きだけ。登場人物の容姿はともかく、「こんな医者おるおる。」のあるある人物像。医局もざっくばらんなあんな雰囲気。医療従事者以外の人が想像する医師のステレオタイプはほとんど見受けられなかった。僕が常々感じている、「医師とは国家資格を持った特殊技能者であって偉人ではなく市井の人」がしっかり表現されていたように思う。
このドラマを語れば様々な視点からいくらでも語れる。それ故、魅力が散漫になりかねない。何か象徴的なものがないか考えていたら、絶好のエピソードが浮かんだ。物語は、記憶を失った主人公の起床から始まった。テレビ画面をみて驚いた。「杉咲さんってこんなにそばかす多かったんや?」、家の妻でさえ「すっぴんでは外出出来ない!」と豪語するくらいなので、女優がほぼすっぴんで、しかもTV画面に近接で映し出されるなんて相当な覚悟がないと出来ない。起床シーンでも化粧バッチリが当たり前のドラマにあって、初シーンから「アンメット」は異彩を放っていた。「アンメット」は、ただひたすら素直に実直に正攻法で描いたドラマだったように思う。しばらく医療ドラマはいいかな。(終)