ケイゴとダイゴ
今回のタイトルは、リクルートが発行していた習い事・資格スクールの月刊情報誌「ケイコとマナブ」とは何も関係ない。 何となく字面が似ているのと韻を踏んでいるのが面白く感じた。ケイゴと言えばミュージシャンの小山田圭吾、ダイゴと言えばメンタリストDaiGoである。少し前に世間をお騒がせした二人である。二人のことは存在を知っている程度で、何を生業にしているのか、作品についてもよく分からない。障害児を持つ親の視点で、この生前日記に一家言残しておきたいと思った。
小山田圭吾の件について知ったのは、彼が突如として東京五輪開会式の楽曲担当を辞任したことに拠る。二十年以上前の雑誌や書籍での彼の発言や内容が問題視されてのものだった。記事内容を見て驚愕した。彼が同級生や障害者に対して行った仕打ちやイジメは、文章にするのもおぞましい凄惨で過酷なもので、イジメを通り越して犯罪である。芸能人で時々見受けられる「昔のワル伝説」のような軽いノリで、自分がした行為を誌上で得意げに吹聴する姿勢に絶句した。インタビューを受けた方も大概だが、掲載するメディアも同罪である。渋谷系、エッジの効いた、サブカルチャーの旗手と持ち上げられた彼の楽曲が、幼少期の原体験に基づいたものなら、その作品は惨憺たるものである。「作品に罪はない。」、「人間性と作品は別物。」と言う意見があるかもしれない。もしそうなら、彼がイジメた同級生や障害者およびその家族は、そのような意見に納得・同調できるだろうか。障害児を持つ親として、「自分の子が同じことをされていたら、」と考えると断腸の思いである。その彼も、今や齢五十を過ぎ子供もいると聞く。二十年以上も前のことを未だに蒸し返され叩かれるのは、きちんとした謝罪と贖罪をして来なかったからである。スタイリッシュと評される楽曲とは対極にあるカッコ悪い生き方を反面教師としなければならない。
「生活保護の人たちに食わせるくらいなら、猫を救ってほしいと僕は思うんで。」、「自分にとって必要のない命は僕には軽いんで。ホームレスの命はどうでもいいんで」と自身のYouTubeで発言したことが炎上しているメンタリストDaiGo。この人のことは、「かつてテレビに出ていた人」程度の認識しかないが、人気YouTuberなので人を強く魅了するものがあるに違いない。今回のニュースを知った時、小山田圭吾のクズ人間問題のあとだったせいか、あまりピンと来なかった。確かに発言だけを見れば、考えが偏狭で、上から目線、選民意識が強いと感じる。決して付き合いたくないタイプの人間だが、小山田圭吾と異なるのは他人に対して危害を加えていないことである。顕示欲の強さ故、許容されると勘違いしバカ正直に応えたのだろう。平和憲法を声高に叫ぶ偽善者に較べたらまだましと思うのは僕だけだろうか。正直なところ、生活保護の不正受給の話を聞いたら無性に腹が立つ。ホームレスを見ると、「ここへ来るまで、なっとかならんかったの?」、「家族の助けはなかったの?」、決して肯定的には受け止められない。しかし、そんなことは他者には言うべきことではなく、自分の内面で咀嚼して寛容すべきことである。「生きていてはいけない人間なんてない。」、言葉を発することが出来ない三男の安らかな寝顔を見る度そう思う。
今回のケイゴとダイゴ、小山田圭吾の件について思うのは、行き過ぎたキャンセルカルチャーの帰結点である。いつ、どうすれば、彼は許されるのだろうか。DaiGoの件では、ポリティカル・コレクトネス(政治的な正しさ)の重要性である。大事だとは思うが、それを求めすぎると表現の自由が阻害される。何れにしても、窮屈な世の中になってしまったものだ。