サマセット・モームとラッフルズホテル
久しぶりの東南アジア旅行
サマセット・モームと言えば「月と6ペンス」で有名な小説家、その程度の一般常識しか僕にはない。むしろ旅行記の受け売りで、世界を股にかけた旅行者のイメージが強い。医学生の頃読んだエッセイの中で、サマセット・モームが「ラッフルズホテルは東洋の神秘に彩られている。」と絶賛したという一文を読んだ。いつかラッフルズホテルに泊まってみたいと強烈に思った。
その夢を新婚旅行でかなえた。新婚旅行と言えばハワイ、グアム、欧州が人気で、旅行期間も平均七日だそうだ。当時、大学院卒業を間近に控えた基礎教室の一員である。一週間の休暇を言い出せず、三泊四日程度の旅行先と考えたところ、ふとラッフルズ・ホテルが浮かんだ。
シンガポールと言えば、今でこそ経済発展している国、観光立国というイメージが行き渡っているが、新婚旅行に行った二十年ほど前はそうでもなかったように思う。シンガポールの象徴であるマーライオン像は「えっ、どこにあるの?」、セントーサ島も公園や記念館がある程度で半日で十分観光が出来た。CMで有名なマリーナエリアのマリーナベイ・サンズは勿論なかった。買い物目的でもなければ、名所巡りでもなく、ラッフルズ・ホテルに泊まる、ただそれだけが目的だった。
行きのシンガポールエアラインで思わぬ出来事が起こった。食事も終わりフライトの半分くらい過ぎた頃だろうか、斜め後ろの席の方がざわざわし始めた。何が起こったのか見たら、日本人旅行者がけいれんしているではないか。外国のエアラインなので日本人のキャビンアテンダントがその場にいず、日本の乗客が「お医者さんが乗っていないか放送かけて。」と言っても、彼女たちに日本語が通じる訳もなく、彼女たちもおろおろしているのが分かった。こちらも医者とは言え研修医上がりで、二年間臨床を離れている身分である。「医者です。」と自信を持って声を出せずにいたが、事態は一向に変わらなかった。思わず「一応、医者なんですが。」と声を上げた。
その後も大変だった。英会話が苦手な僕は、キャビンアテンダントとの会話が成り立たない。しかも、僕が覚えている薬品名は日本の商品名なので、「セルシン(抗けいれん薬、薬品名はジアゼパム)ありませんか?」と聞いてもブスコパン(腹痛薬)が出てくる始末である。片言の英語と薬品名一覧表を見せてもらいながらの処置で、どうにかこうにかけいれんはおさまった。
無事シンガポールのチャンギ空港に到着したが、キャビンアテンダントから、空港内の医療機関に患者さんを連れて行って今回の出来事を申し送ってくれと言うではないか。一時間ほど拘束され入国審査を終え荷物を取りに行ったら、すでにターンテーブルは止まって我々の荷物が放っぽり出されていた。
これからの旅行が波瀾万丈になることを予見させる出来事から、我々の新婚旅行が始まった