デビュー30周年
登山家の長谷川恒男さんが、1991年に雪崩に遭難して亡くなられてから30年経つことをNHKの朝のニュースが伝えた。申し訳ないが長谷川さんのことは何も知らない。1991年、30年という言葉だけが耳に残った。「医者になってからもう30年経ったんや。」、出勤支度中ふと我に返った。医師として社会に出て30年、もう人生の半分以上をその肩書を背負って生きてきたのだ。ほんの少しだけ感傷に浸った。ミュージシャンなら、デビュー30周年というメモリアルイヤーになり記念イベントが開催されるところだが、医者の場合の30年は、もはやロートルである。定年までどうやって生き延びていくか、いかに周囲に迷惑をかけずに生きていくか、それが課題のような気がしている。
卒後10年くらいまでは卒後○年目であることが自分のキャリアや立場を表すものだった。10年もすれば専門も決まり、中堅どころで卒後何年目であることはあまり意識しなくなった。僕の10年目は川崎医科大学で迎えた。父が亡くなり、医院は弟が引き継ぐことになった。心機一転、大学人として新たな道を歩むことを選んだ。20年目は、開業して4年が経っていた。仕事は軌道に乗りつつあったものの、その年の3月11日に東日本大震災が起こった。子供達の教育のことで手が一杯だった印象も強い。あれから10年、子供たちの教育は一段落したものの、昨年と今年はコロナ禍により厳しい経営を余儀なくされている。こうして振り返ると、10年ごとに厄災が起きている。次の10年は、無事迎えることができるのだろうか?
この30年を総括すると、前期と後期に分けて考えられる。前期は勤務医時代、後期は開業医時代である。自身が開業医の子弟だったこともあり、勤務医時代は開業医になるための下準備期間と考え目標を設定して歩み始めた。当初、ブラックジャックとまで言わなくても何でも診られるジェネラリストを夢見た。下積み生活を送る中で、そこそこジェネラリスト兼内視鏡医としてのスペシャリストを目指すことにした。この15年で十分な基礎が身についたかどうか分からない。ただ、当初の目論見通り、学位を取得し、関連する学会の専門医となり、内視鏡医として関連学会の近畿地方評議員にはなれた。何もかも想定外だったのは開業してからだ。開業当時、当地で内視鏡で有名なクリニックは年間1200件ほどの検査を行っていた。したがって、1500件程度出来れば良しくらいに考えていた。それが、いつの間にか基幹病院並みの検査をこなすまでになった。思いもよらなかったもう一つの出来事は、介護事業への進出である。資材置場だっただだ広い荒れ地は、今年、医療と介護の複合施設として完成形を迎えた。
葛藤し迷うばかりの足跡だと思っていたが、こうして振り返ると、現在の僕は25の僕が夢見た以上の者に成れている。確かに自助努力はあった。けれども一人だけでは何も出来なかった。経理全般を担当し、医療法人理事、介護事業所施設長としての役割を担ってくれている妻には感謝してもしきれない。身の丈以上の責任を負わせていることを理解している。そんなことを思うようになったとは、とうとう僕も焼きが回ったのか。父が亡くなった年齢まであと5年、残念ながら僕に次の10年はないものと考えている。しかし、もし生きながらえるなら、どうやって生きていこう、それが喫緊の課題である。社会人として、いよいよ最終章に突入した。