ビルエバンスの思い出
それは、すなわち江川さんとの思い出
You tubeを見出すと止まらなくなる。「どうしてこんな画像が見られるの。」「このCM見たかった。」というものが、お気に入りの単語を入力し、検索をしてワンクリックで見られる。大好きな佐野さんが出演していたTDKのカセットテープのCMを20年ぶりに見た時には鳥肌が立った。CM自体の作りはもちろん、そのCMの中で「音楽は力、今君はそれを手にしている」という台詞が、佐野さんらしく何とも言えずしびれる。その台詞ではないが、「音楽は癒し、今僕はそれを感じている」、クリニックの音楽環境について話してみたい。
開院前、医療はもちろん、医療以外にもたくさんの決めごとをしていた。その一つに、テレビを設置しない、があった。以前勤務していた病院の外来診察室の前に、ちょうどテレビが置かれていた。時々ワイドショーと思しき番組から関西特有の、ガハハハー、という笑い声が聞こえる度に嫌な気分になった。病院というからには、心身に病を持って来られている方達が来院している公共の場である。環境ビデオ、病気に対する啓蒙ビデオなら理解出来る。百歩譲ってテレビを映し出したとしても、音声を出さないのがマナーだと感じていた。一言で言えば、品がない、と感じていた。だから、開院時はテレビを置かない、心地いい音楽に読み応えのある雑誌で待ち時間を過ごしてもらおうと考えていた。
開院後様々な音楽を試してみた。クラシック、ジャズ、ヒーリングミュージック、ボサノバ、70年・80年代のアメリカンポップス等々、現在はビルエバンスのピアノジャズに落ち着いている。ジャズに対しては全く無知である。もっと言えば、ビルエバンスしか知らない。時々「先生、この音楽ビルエバンスでしょ、やっぱりいいですね。」と声をかけてくれる患者さんがいるのだが、知識がないものだから説明のしようがない。訳も分からず「ありがとうございます。」としか言えない。それなら、なぜ?ということになるが、とても深い事情がある。
以前もコラムに書いたように、医学生時代は閉塞感に満ち満ちた6年間であった。嫌なことがあった時、気分転換をしたい時、何もしたくない時訪れる、というか逃げ込む場所と言った方が適切であろう、江川珈琲というコーヒー店が倉敷にあった。お店の主人は、昔は散髪屋をしていたとかで、きっちりした短髪頭に丸眼鏡をかけ、たいへん細身であった。その姿形の印象もあるのであろう、まるで求道者のごとく小さい焙煎釜を前にひたすら豆を炒っていた。ストレートコーヒーはもちろんのこと、ビルエバンスやビルエバンスが弾く曲にちなんだ名前のオリジナルブレンドが絶品であった。その珈琲店は、外観は煉瓦作りのような仕立てになっていて、店内では店主が敬愛するビルエバンスが終日流れ、置いている雑誌も読み応えのある月刊誌が中心であった。茶色のアンティーク家具が置かれた店内は、鈍い白色電球のため薄暗かったが、外観の印象と同様どこか懐かしさを感じさせる雰囲気があった。夕暮れ時に、窓から眺める旧国道の風景が好きだった。ただ、ふらっと訪れては黙って雑誌を読むだけの客だったが、いつの頃からかご主人が話しかけてくれるようになった。コーヒー豆に対する思いやビルエバンスのこと、そして堅苦しくない程度に人間とはどうあるべきかなど、悶々とした医学生にたくさんのことを話してくれた。