今生きているということ
生きていることの意味って?
初めて見た時、レクサス大丈夫かよ、と思ってしまいました。
見ればみるほど味が出てくるデザインです。
「今度レクサスからスポーツカーが出ましたね。3750万もするけれど先生はきっと買うのでしょうね。」、最近そんな言葉を何人かの同業者に聞かれます。嫌みだな・・・と思いつつも、レクサスを見直しましょう、ひいては日本を見直しましょう、と声高に叫んでいれば、そのように捉えられても仕方がありません。「レクサス田辺支店」と揶揄されても仕方がありません、飲み会の席でしつこく、嫌がられても「レクサスはいいですよ、最高ですよ。」と言っているのですから。何を言いたいかというと、レクサスに得心できたということが序章です。
時々柄にもなく、「生きていることの意味って?」などと仰々しいことを考える事があります。下手な考え休むに似たりで、単に徒然なるままに妄想に耽っているだけなのですが、ふと「人生って、自分の心の拠り所、信じられるものを探す旅なのでは!」と私の腐りかけた脳に稲妻が走りました。今や、私の存在理由を聞かれた時、これが数ある理由の一つになっています。
バブル華やかし頃はイタリアンブランドが全盛期で、父親からスーツを買ってやろう、と言われ、フェレやアルマーニだ、ベルサーチだと周りや雑誌の評価のみを頼りに盲目的に卒業式のスーツを買ってもらいました。医師になってからもしばらくそのような傾向が続いたのですが、ふとある時、アルマーニを着ている自分がかっこいいのか、アルマーニを選択した自分がかっこいいのか、分からなくなりました。自分がこだわっているだけで、他人から見ればこの自分が着ている服がアルマーニと分かってもらえるのだろうか、分かってもらえるならどこがアルマーニらしいのだろう、そもそもその服を着ているだけでブランドを主張出来て、かつ自分という人間を表現出来る服ってあるのだろうか、思い悩みました。考えた末に行き着いたのが「ヨウジヤマモト」でした。生活の基本である衣食住の一つに、自分の心の拠り所、心の底から信じることが出来るものを探し当てることが出来た事は至福の喜びです。
同様に、衣食住のひとつ住でも自分の心の拠り所を見つけることが出来ました。それが千葉学建築なのです。服と同様「人が建物を建てることの意味ってなんだろう」と考えました。建物でその作家性を表現しつつ、施主のこだわりを実現化して、かつ住居としての快適性を追究する、もう少しで3年になる私のクリニックはそんなクリニックです。
マイナーチェンジしました。
初めて見たときは違和感を覚えましたが、
見れば見るほどさらに疑問がわいてきます。