令和元年の黒歴史
令和元年は良い年だったと思う。進路を決められないでいた長女が、一昨年突然、医学の道に進路変更した。残念ながら第一志望には合格出来なかったが、家族、兄弟ともに納得できる学校に入学できた。数年以上前から予約していたウルスが納車され、パテックフィリップも納品された。作家の古畑雅規さんにお願いしていた作品も年末にクリニックに届いた。その他にも、今まで購入することが困難だったものが、案外すんなりと次々に購入することが出来た。令和元年は、蒔いていた種が花開いた年である。ただ一つ、今となっては思い出したくもない汚点があった。
ある時、ある青年達から支援を要請された。恩も義理もなければ、ましてや身内でもない。けれども、立場上、成り行き上そうせざるを得ない状況になってしまった。引き受けた以上彼らの要望に応えなければならない。詳細は述べられないが、例えるなら選挙応援みたいなものだった。我々夫婦だけで何ともなるものではなく、ましてやお金だけ出せば済むことでもなかった。沢山の支援者とともに更に多くの応援を仰がなければならない。こんな時は、トップ自ら動かなければ組織は動かない。医師であることのプライドを捨て己を鼓舞して、あちこちに足を運び協力をお願いした。医師の時給は一万円だそうだ。おそらく、五十万近い働きを彼らに捧げた。目論見は百点には届かなかったが、八十点という及第点を付けられるくらいの結果は残せたと思う。彼らも大層喜んでいた。
祭は終わった。なのに、待てど暮らせど彼らは挨拶に来ない。腹に据えかねて彼らを呼び出した。いつもは時間前に集合場所に行くのだが、その日は敢えて十分遅れて到着した。ええっ、目が点になった。年上の応援団長が来る前に飲食を始めているのだ。いきなり気分を害した。怒り心頭の中、「もう何日も経っているのに何で挨拶に来んのな?」と詰問する僕。「もうしたじゃないですか、みんなの前で。」との即答には腰を抜かしそうになった。確かにイベント直後の慰労会で彼らは挨拶をした。けれども、そこにはピンキリの人間が集まっていた。熱烈に支援した人とたまたま呼ばれてきた人が集った場での感謝の言葉が、彼らにとってはすべてだったようだ。愕然とした。我々は彼らの要望に応えた。しかし、彼らは我々の期待に応えられなかった。僕は彼らの希望を叶える義務を負い、応援を取り付けた方々への責任を果たさなければならなかった。故に、僕は彼らに対して権利を主張し、彼らには応援してくれた方々に対して感謝の意を表明する義務があるはずだ。ああーっ、こうして文に起こしている今、当時のことが鮮明に思い出され憤懣やるかたない。人間性に乏しく実力の伴わない輩を懸命に応援した自分が何とも情けない。
だが、彼らに限ったことではないように感じている。医療法人経営者と言う立場上、たくさんのスタッフの面倒を見てきた。そのスタッフを雇用するため多くの面接をしてきた。その前に数限りない履歴書に目を通した。雇用したものの、口ばかりで行動に起こさないもの、言う割にたいしたことないもの、言い訳ばかりするもの、すぐ責任転嫁するもの、責任回避に終始するもの、辛抱が足りないもの、職業意識に乏しいもの、夢や希望のないもの、数え上げたらきりがない三十代を見てきた。かたや、事業を着実に拡大させ異業種にも果敢に挑戦している三十代の土木業社長もいる。彼らとの差異はなんだろうと考えてみた。この文脈からふと浮かんだのは、背負っている責任と自らに課している義務である。その程度の差が、雇うか雇われるか、雇われていても上に登れるかどうかの瀬戸際になるのだろう。何となく啓発的になってしまった。生前日記として、我が子供達に年始からこの場で説教しておくことにする。