初めての角松敏生 前編(文月はコンサート三昧!)
1980年中盤から後半はバブル絶頂期。その時僕は医大生、学生なので自由に使えるお金なんてなくバブルの実感はなかった。けれども、自分の周囲、雑誌やテレビ等のメディアから伝えられる雰囲気は、今振り返ると「浮かれている」、「怖いもの知らず」、「何でもあり」の様相を呈していた。皆が祭り状態だから、その後の失われた三十年を予見する人は当時誰もいなかった。時代は繰り返される。以前からバブル崩壊が叫ばれていた中国、今夏、中国恒大不動産が米国で破産申請をしたことにより現実のものとしてとうとう露見した。不良債権額が日本のバブル期の二十倍とも言われるだけに、三十年とはいかなくても相当長期の成長低下が予想される。ひいては中国共産党の崩壊へも繋がりかねないので、今後一層中国を注視して行く必要がある。
いつものごとく前置きが長くなった。バブル絶頂期の頃、ミュージックシーンも百花繚乱だった。千紫万紅の渦中、とりわけ角松敏生は異彩を放っていた。一言で角松敏生の音楽を語るなら(あくまでも私見)、「夜のハイウェイを二人きりで聴く最高の音楽」。スマートかつスタイリッシュ、日本人とは思えない音楽センスに通を唸らせるテクニック。当時も洋楽全盛だったが、角松敏生を聴いていれば許させるような雰囲気が僕の周囲にはあった。大学時代かなり聴いた角松さんだったが、バブルとモラトリアムの終焉とともに終止符を迎えた。V6の「WAになっておどろう」が角松作品と知ったのを最後に、自分の生活の中でその名を聞くことはなくなってしまった。
何の因果か三十年の時を経て、チケットぴあから角松敏生コンサートの案内が届いた。懐かしさ半分、現在の角松さんを知りたいと思う好奇心半分、しかも会場は大阪フェスティバルホール、何の迷いもなく抽選に応募してみた。すると、幸運にも家族三人分の席が確保できた。コンサートに一緒に行く三男のドラムの先生が僕の同級生で、音楽の趣向性が似ているから「どう?」と誘ってみた。すると、二つ返事で快諾。七月三十日、日曜日、四人で角松コンサートに行くことに。その事を友人・知人に伝えたら、なぜかほとんどがキョトンとしていた。一回り下の世代ならまだしも、同世代でも共通認識にかけていたことに驚かされた。「一世風靡したあの角松敏生を知らない?過ごした時代が同じなのに過ごした環境でそんなに変わるものか?」どうも合点がいかない。しかも、予習すべくサブスクで検索したところ、リストアップされている曲が何と少ないことか。あの頃聴いた思い出の曲が、この情報化社会でも聴くことが出来ないのだ。早見優のゴンドラ・ムーンが聴けるのに。知っているのに初めてが不安になってきた。