安倍晋三元首相の国葬報道に思う。
ある日の夕刻、NHKニュースを見ていたら、「市民グループが安倍氏国葬の差し止めを求める」との見出しでニュースが流れた。市民グループと称するからには大勢かと思いきや、たった二人の男性が大阪地裁に異議申し立てをする映像が流れた。齢のほど70前後。報道機関が待ち構える晴れの場に、上着を着ていなければネクタイもしていない。百歩譲ってクールビズと言うには、ちっともスマートじゃない仕事帰りと思しき普段着。しかもプラカードまでかかげている。どう考えても、活動家、特に左巻きに間違われても仕方ない風情だ。これをいわゆるプロ市民というのだろうか。
テレビに映る国会議事堂前で抗議する市民を見ていていつも思う。「一体どんな生活をしているの?」「こんな時間(いわゆる勤務時間中)にデモが出来る仕事って?」「国会前でアジって世界は変わるの?」「日本政府に文句を言う前にもっとやることあるでしょ。今なら、先ずはロシア大使館に行ってよ!」僕にとっては何もかもが不思議だ。「権利を主張するなら、皆が働いている時間に非生産的な行動をする前に、先ずは働いて国民の義務を果たしてから賛同を得るべき行動を起こせば!」と僕は思う。僕に自らの考えがあるように、多種多様な意見や行動があるのは当然だ。とは言っても、テレビに映る市民と僕の周りにいる市民との間には断絶があるとしか思えない。
この僕でさえ、政治体制に対して不満があったとして、どう裁判を起こしていいか分からない。市井で慎ましく生きている市民は、思想や心情を侵害されたからといって、この国や政府を簡単に訴えられるものだろうか。普通に暮らしている人々は、不平不満があっても日々の生活を生きることで精一杯。この国のことを考える前に、自分や家族、僕なら事業所スタッフおよびその家族を守ることで手一杯だ。かつての民主党政権時代、僕はすべてに憤懣やるかたなかった。かつてない円高と株安に導いた経済運営と東日本大震災時のドタバタは決して忘れることはない。僕は誰よりも怒れる市民だった。しかし、民主主義国家に生まれた以上、選挙で選ばれた政府を国民の総意として受け止めざるを得ないのが現状である。例え、怒りに任せて国会前でデモを扇動しても時間とお金のムダである。イデオロギーよりも損得勘定、これが市民感情というものだ。
報道機関はまやかしだと思う。政治活動家を市民の名のもとに素性を覆い隠し、国葬反対が一般市民感情のように報道するのはいかがなものだろうか。僕のような国葬賛成者の意見も取り上げるのが、公正な報道姿勢である。国葬には賛否あるという意見もあるが、そのような風潮を醸成しているのは一体誰なのだろう。今回の状況を見ていて、昨年の今頃のことを思い出した。当時、東京五輪開催に対してマスゴミが導いた趨勢は開催反対だった。しかし、開催されるや否や、頬かむりしてのちゃぶ台返しと掌返し。喉元過ぎれば何とやらの一人芝居には呆れて物が言えなかった。9月27日の国葬の日、可能なら日本武道館に足を運びたいところだが、僕は遠くで静かに弔慰を示そうと思っている。事件現場に絶えなかった献花の列は、きっと武道館にも捧げられるに違いない。大声を挙げなくても裁判に訴えなくても、思想に関わらず敵味方に関わらず、銃弾に倒れた元首相に対して先ずは敬意を払う、そして黙って花を手向ける、これが日本人元来の持つ美徳でないのか。死人に鞭打つ報道に腹立たしさを覚えるのは僕だけだろうか?