院長のコラム

早すぎる死

中村勘三郎さんの訃報に思ったこと。

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歌舞伎俳優の中村勘三郎さんが、つい先日お亡くなりになられた。歌舞伎のことはよくわからないが、歌舞伎の枠を越えて多方面で活躍されていたことは誰もが知るところである。享年57歳、早すぎる死に本人は悔しい気持ちで一杯だろうが、残された家族のことを考えると、そのショックは計り知れないものであることは僕自身が経験したことであり、分かるような気がする。あの頃を思い出すと、今でも胸が締め付けられそうになる。

父が亡くなったのが59歳、我々兄弟もちょうど中村勘三郎さんの息子さんたちと同じくらいの年齢であった。僕は30前半で、弟は僕の2歳年下になる。僕は大学院に入学したため、人より出遅れた臨床経験を踏むべく色々なことを貪欲に学んでいた時期で、父親が病に倒れた時は、念願の東京で消化管の形態学を学び始めた頃だった。残念ながら、父の診療所を手伝うため(財)早期胃癌検診協会を半年で退職することになった。
ある日、診療所で血圧を測定していたら「俺の医療人生はこれでゴールなんだ、これからの40年間を1日数件の胃カメラをして、あとは血圧を測り続けるだけの人生なんだ。」とふと浮かんだ瞬間、谷底に突き落とされるような絶望感、何のために医者になったのだろうかという不安感、何よりもこれでおしまいといった挫折感をおぼえた。自暴自棄になって折れそうになった心を慰めるべく、清水の舞台から飛び降りるつもりで、当時の自分の月収では到底買うことの出来ない高級腕時計を24回の分割で購入することにした。
弟は、大学病院から地元の病院に派遣され実家から通勤していた。父に電話をすると、忙しくしていてほとんど顔を合わせることがない、と電話の向こうでいつも嬉しそうに話していた。父が病に倒れた時は、外科医としてようやく一人前になって来た頃で父の手術にも執刀した。

当然のことだが、父無き長嶋医院を誰が継承するかという話になる。僕は長男で家庭を持ち、医学生時代に目標としていた医学博士と内科専門医(現総合内科専門医)を取得していた。自分の中ではある程度けじめがついていたし、継承致し方なしと自身に言い聞かせてみたものの、自分自身に自信がないまま、納得できないままの後継ぎには相当抵抗があった。声高らかに長嶋医院を継承するとは言い出せずにいた。
弟は、当時独身で外科医の醍醐味を実感していた時期だったと思う。まだまだ、やりたいことがたくさんあったろう。何よりも、外科医として道半ばでメスを置くことは断腸の思いであったことは想像に難くない。一方、社会人になってから誰よりも父との時間を過ごし、父の意思・意向を身近で聞いていたのが弟である。葛藤の末、弟が父の遺志を引き継ぐ大英断を下してくれた。

住む世界・環境・歴史が全く異なる中村兄弟と長嶋兄弟であるが、尊敬する偉大な父を持ち、父を誇りに父と同じ道を選択したことに変わりない。
あれから約13年、長嶋兄弟はそれぞれの道を歩んでいる。若気の至りで兄弟喧嘩したこともあったが、それも今となっては思い出話として笑い飛ばせる年齢になった。
僕にとって歌舞伎と言えば、市川海老蔵の武勇伝しか思い浮かばないが、個人的には、中村勘九郎・中村七之助兄弟の動向を末永く見守って行きたい、と思っている。

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