母上様、お元気ですか。(2010年)
本を出版するにあたり、改めて院長コラムを全部、二週間以上かけて読み返した。そうしたら、感情の赴くまま書いた思い出のコラムがどこにも見当たらない。ホームページを刷新した際、抜け落ちたようだ。2010年に書いたコラムをここに再掲する。
今回のテーマは、アニメ「一休さん」のエンディングテーマから。
僕の母は、俗名「長嶋阿也子」。もうこの世を去ってから長い。医学生一年生、僕が十九歳の十月に卵巣癌で亡くなった。御年四十九歳。
川崎医大は二年生まで全寮制を義務づけられているため、訃報は寮の舎監さんが取り次いでくれた父からの電話で知った。ちょうど中間試験中だった。すぐに荷物をまとめて翌日に帰省。帰省途中の特急「くろしお」から見える風景はいつもと違って、ただ流れて行くだけの映像に過ぎなかった。あれだけ恰幅のよかった母が、がりがりに痩せこけて頬に詰めものを入れられた死に顔を見たら、とめどなく涙があふれた。それから、お通夜、葬式と悲しみにくれる間もなく慌ただしい日々が過ぎた。葬儀を終えてふとみた秋空が悲しいほどお天気だった。改めて母親がいなくなったことを実感し無性に切なくなった。
母は昭和十二年四月に北海道で生まれた。行動的な人だった。今のように飛行機は一般的ではなく、交通網もしっかりしていない時代に、女一人で列車を乗り継いで奈良女子大を受験。見事に合格、その出来事は当時、道内の新聞に掲載されたらしい。卒業後は北海道大学の図書館で働き、医学生の父と出会い学生結婚したと聞いている。
母は、背が高くそして恰幅があり着物が似合う人だった。母のイメージというと、とにかくバイタリティがあり男勝りの女性。男勝りであるが故に姉御肌なところも強く、「よし分かった、まかせとけ!」、老若男女関係なく面倒見がとてもよかった。感情の起伏が激しく、喜怒哀楽の分かりやすい人だった。嬉しいことがあった時には、小遣い以外のお金をぱっとくれた。悲しい時には大声でわんわんと泣いた。感情の制限速度を超え激しく暴れることもしばしば。ある時、あまりにもそれがひどいので父が鎮静剤を使用したところ、見る見るうちに朦朧状態になりばたんと倒れてしまった。小学生の僕は思わず、「お父さん、お母さんを殺したわ!」と叫んだ。
こうやって書き綴っていると、僕は母親からのDNAをふんだんに注入されているのだろう、似たところが多々ある。
僕はもうすでに、母と過ごした以上の期間を自身の家族とともに生きている。なのに、年を重ねれば重ねるほど母親に会いたい気持ちが募る。例え幽霊であってもいいから、枕元に立って欲しいと何度願ったことか。父と同じ医師になり、結婚し両親と同じように子供に恵まれ、その子供たちを今育てている。四年前には、父と同じように独立し開業した。自分の社会的地位が上がれば上がるほど、このなで肩に責任が重くのしかかる。思い悩むことがますます多くなる。やりきれなくなった時、思わず一休さんのエンディングテーマ「ははうえさま」を口ずさんで涙があふれてくる。
「母上様、僕はあなたが思い描いたような生き方をしていますか?」
「母上様、僕の家族はいかがですか、子育てはきちんと出来ていますか?」
「母上様、僕の立ち振る舞いはどうですか、このままでいいですか?」
「母上様、僕は何かとはみ出してしまいますが、直したほうがいいですか?」
「母上様、僕はもっともっと大きくなれますか?」
♪ ははうえさま お元気ですか
ゆうべ杉のこずえで あかるくひかる星ひとつみつけました
星はみつめます ははうえさまのように優しく
わたしは星にはなします くじけませんよ 男の子です
さびしくなったら はなしにきますね いつかたぶん
それではまた おたよりします ははうえさま いっきゅう
ははうえさま お元気ですか
きのうお寺にこねこが となりの村にもらわれていきました
こねこはなきました かあさんねこにしがみついて
わたしはいいました なくのはおよし さびしくないさ
男の子だろ かあさんにあえるよ いつかきっと
それではまた おたよりします ははうえさま いっきゅう ♪