海陽学園を通して考えたこと(3)~全寮制は純粋培養?~
決して格差社会礼賛、競争至上主義ではないことを理解して欲しい。ただ、あまりに格差、格差と連呼しても、格差を是正することによって失うもののほうが大きいような気がする。建前上は格差のない社会と言えば社会主義国ということになるのであろうが、ソビエト連邦は崩壊し、中国には日本以上の格差があることは周知の事実である。かって世界の楽園と評された北朝鮮は言うまでもない。政治家、特に左翼系や市民運動家は、とかく格差をはじめとして、貧困、弱者という言葉を使って体制を批判非難しようとするが、それでは自分達がどのような社会、経済体制を目指しているのかということになると明確にはしていない。せめて、どのような国を目指しているのか、具体的な国名を提示してほしいものである。
この世界には理想の国家なんてないと思う。理想の社会、理想の会社、理想の家庭、理想の夫婦、そんなもんなんかありゃしない、ただの幻想である。自分の今存在する環境や境遇の中で足るを知り、いかに生き抜いていくか、ただそれだけである。したがって、海陽学園も理想の学校ではなく、それがすべてでもない。ただ、父である自分が息子によかれと勝手に納得し、息子も「何だかおもしろそうな学校」という程度に過ぎない。今のところは、水を得た魚のように活き活きと忙しい日々を送っているようである。
海陽非難の一つに、純粋培養されたロボット的な学生、というのがある。男子学生ばかりの閉ざされた空間で、ゲーム機の利用はもちろん、学内での携帯の利用も原則禁止である。持ち込めるCDや本に制限があり、漫画本やi-podの持ち込みも禁止されていたと思う。確かに時間厳守が原則で規則や規律が厳しいのは確かであり、その事実だけを捉えると、海陽非難も一理あるのかな、と思わせる。しかし、これがお坊さんの修行ならどうだろう。花街の真ん中にある修行寺なんて聞いたことがない。テレビ、女性,ゲーム、ネットすべてOKなんていう修行は聞いたことがない。立派な宗教家になるには厳しい修行が必要だと思うし、最近生臭坊主が多いためか厳しい修行をした僧には有り難味を感じる。海陽学園の全寮制システムを、リーダーを養成するための修行と考えれば厳しい規則や規律は全く違和感がない。
元来が裕福な家庭育ちで、隔離された場所に管理され、そのような環境で育てられた人間は、その他の人間の痛みや気持ちは分からない、という意見もある。隔離された場所とはいえ、エチカの鏡でも紹介されていたように、その中では生徒の自主的、主体的な自治が行われている。自分達以外の人に対する思いやりに欠けるという意見も間違いである、それは自分が証明している。僕は地元の小学校、中学校へと通った。ある意味地元の公立中学校というのは社会の縮図である。自分も含めて様々な家庭環境の人間と交わり、喧嘩もしたし恋もした。いじめたし、いじめられたりもした。これらの経験が自分の人格形成に役立ったかと言えば、どう考えてもそんなことはない。今も付き合っているのはごく一部の気の合う同級生だけである。むしろ、同級生にその筋の人になった人間がいて、ある日突然「100万円貸してくれ。」と来られた時には閉口した。
先日の「エチカの鏡」の中で特に取り上げられていたM君には感銘を受けた。将来の目標は、国境なき医師団に参加し貧しい国の医療に貢献したい、その後は癌治療の専門医になりたい、という明確な目標を持っていたからである。普通の高校2年生くらいなら、先ずは医学部に入学する、程度であろう。M君元来の人間性が大とはいえ、それを育み支援する体制が海陽にあるのも事実である。これこそまさにノブレスオブリージュ(高貴なる義務)である。「お坊ちゃん学校」「格差社会の象徴」と揶揄されるような単純な学校ではない。