私的老人の三徴
医療でよく使われる言葉に◯◯の三徴がある。死の三徴とは心臓停止、呼吸停止、瞳孔の散大および対光反射の消失。この世とあの世の境は、この三徴でもって区切られている。その他に、シャルコーやウィルヒョウ、水頭症の三徴などがある。ところで、自分の生活の掟にもいくつかの三徴があり、あった。その一つが年寄りの三徴候、「朝ドラ」「大河(ドラマ)」「大相撲」(を観ること)。あくまでも個人的見解で、それを楽しみにしている方を揶揄するつもりはない。それらは自分の生活リズムと相容れないものとずっと思っていた。
朝ドラは今でこそ8時15分から8時開始と早まったものの、社会人になってからこの方、その時間帯は勤務医時代なら出勤の身支度、開業後は既に出勤済。夫、子供を送り終えた妻はよく見ていたようで、「◯◯は面白いは。」と言われても、「呑気な専業主婦はいいよな。」と内心毒づいていた。状況が変わったのは、何気なく目に届いた「半分、青い。」から。癖ある登場人物達に人の心を捉えてやまない何気ないセリフの数々。テレビ関連機器の進歩もあり、録画予約・再生・削除はいとも簡単になっていたから、以来、朝録画したものを夕食時に観るようなった。見ている方には申し訳ないけれど、現在放送中の「おむすび」は「ちむどんどん」に続いて早々に脱落。むしろ、BSで再放送されている「カーネーション」に今は夢中。
三十代、四十代は仕事一筋の時期。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」というドイツの鉄血宰相ビスマルクの言葉がある。そう思って吉川英治の「宮本武蔵」や司馬遼太郎の長編小説を何冊か読んではみたものの、腑に落ちなかった。登場人物が偉大すぎて、今を生きる自分を歴史上の人物と重ね合わせることが出来なかった。独立した頃は、もっぱら啓発書や実用書ばかりを読んだ。だから、日本史に登場する人物を扱った「大河ドラマ」には全く興味がわかなかった。また、日曜夜と言えば休日気分が抜けて明日への心の準備をする時間帯。大河のような重厚な舞台背景に仰々しい台詞回しよりも、バラエティやスポーツ番組で気分をリセットする方が性に合っていた。しかし、潮目が変わったのは宮藤官九郎脚本の「いだてん」から。「いだてん」は途中リタイアしたものの、次作の長谷川博己主演の「麒麟がくる」ですっかりハマってしまった。
つい最近まで、「大相撲」のことは一般常識的に知る程度。放映している時間がちょうど帰宅する頃で目にすることは多々あったけれど、職業柄合点がいかなかった。相撲も格闘技の一種。しかし、人工的に作られた肥満体型は格闘家と言うにははなはだ疑問。力士なら許容されるかもしれないが、あの体型で一般人なら生活習慣病の三冠王、早死には必発で医師から苛烈な指導が入ることは間違いない。戦い方法も単純に言えば「ぶつかり合い」、長くて一分、場合によっては瞬間に勝負が決することもあり勝負として造作ない印象。しかも、どちらかと言えば合理的現実派の僕にとって、相撲の様式や格式が煩わしかった。ところが、昨年くらいから三男の太陽が嬉々として大相撲を見るようになった。場所がない時はYou Tubeで大相撲を熱心に見ている。「何が面白いのだろう?」と観ていたら、こちらもその面白さにハマってしまった。