院長のコラム

葬儀に参列して

明日は我が身

時々飲み友達の経営者のホームページから拝借。
いつか、こんなところで葬儀をあげたいな、
とは、さすがに夢見られません。

 40歳も半ばになると、葬儀に参列する機会が増えた。社会的立場による側面もあるが、我々の親の世代が亡くなる年代のようだ。
両親を若くして亡くしている自分にとって、葬儀に参列することは精神的に辛い。遺族の姿にかつての自分を投影し、その時の光景や悲痛さが蘇るからだ。しかも、僕の場合、肉体的にもこたえる。通常、通夜は19時から営まれる。平日1日1食主義の僕は、診療時間が早く終わることもあって、大体18時頃から夕食を摂る。通夜がある場合、食事開始時刻が2時間は遅れるからだ。
したがって、通夜では、故人に対する敬意と遺族とともに悲しみを分かち合いたいという気持ちと、自身のトラウマと飢餓状態がせめぎ合う。心身ともに疲弊して帰宅することもあれば、空腹感を忘れて心晴れやかに家路につくこともある。この違いは何だろう、自分なりに考えてみてたどり着いた結論は二つである。一つは、僧侶である。もっと言えば、僧侶の読経と立ち振舞が葬儀を左右する。
読経の際の音調・抑揚・拍子・旋律が、聞いていて心地いい場合とぎくしゃくさを感じる時がある。例えるなら、本チャンのラッパーが歌うラップとアイドルの歌うラップの違いである。宗派は特に関係ないが、年齢は年老いた方が有り難みがある。
振る舞いも重要である。導師入場から祭壇の前に座るまで、参列者は僧侶の一挙手一投足を注視することになる。何度も見ていれば、優雅なものから粗野なものまで分かるようになった。読経と振る舞いの素晴らしさは、正比例するようである。
ある葬儀で、読経を終えた僧侶が故人との思い出を語り出した。ぼそぼそと喋るので聞き取りづらく、話し方もたどたどしく、何よりも内容が間違っていた。帰りの車で友人と顔を見合わせて、「和尚から、あんなに有り難みのない話、聞いたこと無いな、ありえへんで。」となった。たくさんの方が参列していただけに、残念な通夜の一つになった。

葬儀では、喪主の挨拶が最も重要である。僧侶の良し悪しを凌駕し葬儀を左右する。
我々の年齢で葬儀に参列する場合、喪主や遺族の知人として参列することが多く、故人とは直接面識がないことがほとんどだ。したがって、故人の経歴や人となりが分からないままの参列になる。それを知るには、喪主の挨拶しかない。おそらく、葬祭会社が喪主挨拶の定型文を渡すのだろう、何度か参列すれば決まり文句があることが分かる。紋切り型の挨拶だけで終わった場合、空腹感が虚無感に変わる、どっと疲れる。一方、喪主が故人への思いを込めた場合、自然と涙が溢れ、遠かった故人との距離が一気に縮まる。その人となりを、遺族から知ることができる。
年明け早々、通夜に参列することになった。僧侶も素晴らしかったが、喪主の挨拶に心動かされた。経歴や故人が好きだった座右の銘を、思い出を交えて懇切丁寧に話されていた。故人は千の風になったが、この世に確かに存在した証を、そして存在した意味や意義を、喪主や家族に垣間見たような気がした。悲しい席ではあったが、心が洗われるような気持ちになった。

この文脈で考えると、末恐ろしくなってきた。同業者から疎まれ、友人も少ない僕の葬儀に参列してくれる人は、おそらくいないだろう。クリニックスタッフも、金の切れ目は縁の切れ目、はい、さようならである。そもそも、日頃から妻子に厳しくしているので、「うるさい奴が、とうとうおらんくなったな。」の一言で葬儀もしてくれないだろう。
老後はお遍路さんになって、神社参りをしよう。そして、急斜面にある神社を参ってから、断崖絶壁の道から谷底に滑り落ちて、誰に探されることもなく看取られることもなく来世に旅立ちたい、そんな妄想が浮かんだ。

千の風になるのも、近頃は大変ですね。

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