裸の心
生活リズムの中に、スイミングが入ってきてもう何年になるだろうか。週二、多い時には三回通っている。二日酔いで億劫になることもある。泳いでいても体が重くて、「来るんじゃなかった。」後悔することもある。けれども、一時間程度のルーチンワークをこなせば、疲れた体やふさぎ込んだ気分は晴れやかになる。だからこそ続いているのだろう。もちろん、スイミングが体と健康にいいのは解っている。しかし、飽き性の僕が継続できているのはそれだけだろうか、ふと考えてみた。
いいクルマに乗って、最新のファッションを身に付け、高価な腕時計をしていても、プールに行って裸になればそんなの全く関係ない。スイムパンツ一丁になれば、最終学歴、職歴、社会的地位なんてうかがい知ることはできない。分かるのは、健康管理をしているか、体を鍛えているかだけである。至極当然のことながら、泳ぐためには更衣室で着替えなければならない。否が応でも大きな鏡に自分の生温い上半身が映る。しかも、プールでは公衆の面前でそんな自身のみっともない肉体を晒すのだ。自分の体と対峙し、かつ他人の評価を受ける場なんてそうそうない。公衆浴場くらいなもので、日常生活においてパンツ一丁で歩けば、即警察に逮捕である。プールに行くことは取りも直さず、肉体の自他比較と自己評価をすることなのだ。
泳ぎ始めれば、ただ泳いでいるのか、泳ぎ慣れているか一目瞭然である。比較的筋肉質の男性が、平泳ぎばかり、しかも二かきで頭を水面に上げる泳ぎ方をしていれば、見る人からすれば相当に野暮ったい。時折、ここぞとばかりにバタフライで泳ぐ人もいる。本人は得意げなのかもしれないが、見る人にとれば、プールでわざわざ波風を立てる変わった人である。折角泳ぐなら、優美に泳ぎたいものである。泳ぎ始めた頃は、四泳法をマスターすることに注力した。ある程度泳げるようになれば、次は早く泳げるように努めた。しかし、これがなかなか難しい。陸上では、腕と足を速く動かせば動かすほど速く走れる。しかし、水中では逆に抵抗となって、一見勢いがある泳ぎ方をしているようでも速さが伴わない。ストロークとキックのバランス、ストロークとキックそれぞれの抵抗を如何に少なくするか、それが水泳の要諦である。YouTubeを見ては、あれこれしながら研鑽を積んでいる。最近になってようやく、クロールらしく泳げている感覚を少しだけ掴んだ。四泳法の中で最も難しいのは平泳ぎとも実感している。僕にとってスイミングは、水泳道になりつつある。
体力と健康のためなら、他にもたくさんの運動方法はある。数多ある中で、僕はスイミングを選んだ。その理由は前述のごとくである。自身のボディイメージを自他ともに客観視することを強要される。自身のスイムスタイルを、常に水に追求する場なのである。大分こじつけた内容になったが、これくらい考察しないと、なぜ持続しているのか説明がつかない。そうは言え、相変わらず弛緩した身体を許し安穏とした泳ぎ方を許容している自分がいて、中途半端な肉体を曝し続けている。僕はきっと三島由紀夫には成れない。