40年ぶりの母校卒業式(2)
ところで、40年前、僕はこの場に確かにいた。目標としていた国公立大学医学部受験に失敗し、想定外の私立医大に行くことになった。釈然としない憤懣やる方ない思いを抱え3年G組の席に座っていた。「卒業していったい何解るというのか 思い出のほかに何が残るというのか あと何度自分自身卒業すれば本当の自分にたどりつけるだろう」尾崎豊の「卒業」をずっと口ずさんでいたように覚えている。一見行儀よく座っているように見える現卒業生を眺めながら、「かつての自分のように忸怩たる思いで卒業を迎えている学生がいるのだろうか?」、「かつての自分が今や母校の来賓なんて噴飯物だよな。」、複雑な思いが交錯した。
話は戻る。僕の来賓席順は悪く言えば末席、良く言えばトリ。「どうする雄一!?」って自分に問いかけても判断する基準がない。真実は一つ、最後に挨拶するのが自分ということだけ。ということは、上席の動向を確認して順番が回ってくる直前に決断すればいい、と腹を据えた。すると、上座から順に「卒業おめでとうございます。」に終始することに。「このまま終われば趣がない。キャシャーンがやらねば誰がやる!」もうやけくそだ。マスクを外し急遽、用意したAプランとBプランの中間案で声高に叫ぶことにした。「卒業生の皆さんは、新型コロナ感染症のため、思い描いたような学生生活を送れなかったかもしれません。しかし、この会場にいる先生や保護者の皆さん、誰もが経験したことのない貴重な高校生活を送られたのも確かです。この体験を糧に、決して臆することなく、自信と誇りを持って新たなる人生の第一歩を踏み出してください。」と締めた(おそらく)。
「ピンチはチャンス」「禍を転じて福と為す」という言葉があるように、卒業生に送った僕の言葉は実体験に基づくものである。「先が読めない浪人生活を送るよりも早く医者になれ。」の父の言葉は的を得ていた。おかげで妙な学歴コンプレックスはなくなった。長男にも関わらず家業を継承しなかったことに対して慙愧に堪えなかった。しかし、家督を継がなかったことにより自分が思う医療を具現化できた。今年の卒業生は多方面で制限され、かつ不自由な学生生活を強いられた。けれども、何不自由のなかった僕の高校生活が有意義だったかと問われれば否である。ニューノーマルを学生として生き抜いた彼らの今後に期待を込めてエールを送った(つもり)。広い体育館で僕の思いが届いたかどうか分からない。
卒業生退場までじっくり見届けたかったが、来賓が最初に退場するようで、入場時と同様、校長先生先導のもと後ろ髪ひかれる心情で退席した。退場後、校長先生からねぎらいの言葉をいただけたので、式の一助になったかもしれない。今年が同窓会会長の最終年度になる。COVID-19が二類から五類に移行すれば、学校行事も従来どおりに戻ることが予想される。母校に少しでも貢献できるよう尽力したいと心新たにした3月1日となった。